新芸術企画コラムvol.25【ドッカイリョク】

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画像はクルターク作曲ヤテコック(遊び)より
「パガニーニを讃えて」の一部です。
音符が少し大きいですね。
草野心平の詩「冬眠」を思い出しちゃいます。


コラムvol.2【ドッカイリョク】
 
読み解く力。我々音楽家で言えば「読譜力」とでも言おうか。
 
J.S.バッハは1685年にドイツ中部にあるアイゼナハと言う小さな街で生まれ、1750年ライプツィヒで生涯を閉じた。65歳だった。彼が生きていた時代と言うのは今から約300年~250年程前の事である。
 
クラシック音楽は別に彼に始まったわけでもなく、そもそもクラシック音楽というジャンルが何かのきっかけで生まれたのではない。音楽史学、歴史学の観点からみればバッハは非常に新しい作曲家とも言える。いつどこでどのように音楽は生まれたのかなんて話はとてつもない壮大な話になるわけで…。
 
先日、作曲家の加藤真一郎氏の作品を東京文化会館で行われた「プレゼンテーション」というコンサートで演奏(初演)させて頂いた。いわゆるゲンダイオンガクである。日本人作曲家による日本国での最も新しい作品がそこで産声を上げる。日本を代表する作曲家の方々も多く来られていた。
 
作品を初演するにあたって作曲家からの直接指導をお願いした。これは、普段ベートーヴェンやショパン、バッハなどを演奏する我々にとってはとても貴重な経験である。作曲家ら直々その作品の解釈を教えてもらえる。それはとても有意義な時間であった。そして加藤氏はこう言葉を残した「作曲家の意図を全て楽譜に記すことはできない」と。それはとても印象的な言葉だった。以前からそれを他の作品でも強く感じていたが(むしろ作曲家の意図を全て楽譜に記すことが出来る、という事の方が不自然である)、実際に作曲家本人からそれを耳にし、さらには作曲家の意図を直々にうかがえることは状況として我々演奏家が普段ベートーヴェンやバッハを勉強することとは異なる。前者は記譜されている事と作曲家の意図の「明確な距離」を知る事ができ、後者はあらゆる音楽的知識と経験による「推測の域」を出ない。
 
300年前の人間と今生きている人間とは何の違いがあるのだろう?ある意味「違いなんてなんにもない」のかもしれない。バッハだからこう弾くこう表現する、ショパンだからこう、ストラヴィンスキーだから、武満徹だから、加藤真一郎だから、とは何を意味するのだろう?作曲家は「楽譜」によってのみ、その「伝えたいもの、表現したいもの」を残す。僕らはそこから読み解かねばならない「これは一体なんなのか」ということを。明確な距離を知ったところで、推測の域を出ないところで、演奏者自身がまず「音から感じ得る事が出来なければ何も始まらない」のだ。導くのではなく導かれなければならない。
 
300年前の人間も、道端に咲く一輪の花に美しいと思えたはずだし、大切な人を失えば悲しいと思っていたはずである。そしてその気持ちは今生きる我々も変わらない。300年前も今も変わらない。僕の師事した先生はこう言った「モーツァルトの腕を切ったら何色の血が出ると思う?我々と同じ赤色だよ」と。バッハを弾こうが加藤真一郎を弾こうが何も差異はないわけで、楽譜によって導かれる精神性や感情に対話する。そうしてようやく、演奏表現における様々な事を導くことができ、作曲者の背景が意味を成し始める。
 
なんてピアニストとしての専門的な事を今回は書いてしまいましたが、ようするに・・・なんでしょう?個々の読解にお任せします。おわり。
 

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