【6/25】東工大生による即興

この日の講義では、学生同士ペアになり即興を披露しました。

各ペアが即興を披露した後は、他の学生たちに感想を聞き、最後に奏者に話を聞く。

みんな「音」に対し様々な感想を持つけれど、奏者の話を聴く前にそれらの言葉を聴いてるとこれがまた興味深い。披露された即興に対し(理論何もないので、100%奏者の感覚に委ねた音の羅列となる)、周りが受けた印象は結構似ている。同時に真逆の印象も存在する。いやぁ〜、面白いですね。本当に面白い。

ペア、要するに連弾となるわけですが、まずは段階を踏んである種のルールは設けています。「1本の指で、交互に音を鳴らしていく。相手の音をよく聴く。リズムやテンポは自由。」

相手の音に耳を傾けることで、ある種の表現を汲み取ろうとし、それに対し応答することで自分も何かを表現しようとする。

そこには理屈を超えた感覚のみの対話が繰り広げられます。学生たちはみんなよく弾いていました。

そして最後に演奏してくれた二人の学生。この日彼らによって披露された即興は、東工大の歴史に残る名演、もしくはもっとも物議を醸し出し、問題提起された即興となりました。これは決して過言ではありません。

結局、最後のペアは40分弱即興をし続けました。最後は止むを得ず僕が止めたほどです。本当は止めたくなかった。しかし、様々な状況を考慮し、止めなくてはならなかった…。もし止めなかったらまだまだ続いていたでしょう。

そこまでの長時間即興することは凄いことです。ただでさえ人前で即興することはプレッシャーがあります。そんなことは微塵も感じさせることはなく、ただただ淡々と演奏していました。

その時間は聴いている僕を含めた全ての学生たちに様々な思いを与えました。期待、緊張、不安、苛立ち、安心、迷い、無、怒り、希望、最後にまた期待…。このまま続けた時に最後がどうなるかその場にいたほとんどの人間が期待を寄せました。

僕はこの即興を聴いて、ジョン・ケージの4分33秒を思いました。

エマニュエル・ビュアンゾの「芸術とは問題提起である」をも思い出しました。

芸術とは何でしょうか?

この講義ではこの問いの解を見つけることはしません。むしろ不必要です。

しかし、この問いを思わざるえませんでした。問い続けること自体が解のようにも思いました。複雑に絡み合った感性の糸を辿りたくなりました。この瞬間に生まれた二度と聴くことはできない即興に我々は様々な思いを抱き、40分弱のドラマの中に生きました。命を与えられそして死にました。壮大な人間の感性の渦のようなものを思いました。

そこには言葉にならない無数の言葉や感覚が頭と心を支配し、結局沈黙になることも。

決して忘れることのない時間です。

そんな時間を東工大の学生たちと共感共有できたことがとても嬉しい。

そして、この素晴らしい即興を繰り広げてくれた学生たちにただただ感謝です。心からの「ありがとう」を言いたい。

表現することとは一見アウトサイドに向かう感覚ですが、同時に自分の心の中を探る行為でもあります。アウトサイドとインサイドに向かう力が同時に働いています。人は自分のことを知っていそうで案外に知らないものです。その感覚が強まれば強まるほど、自分自身の感性の世界を広げてくれる、または既に秘められた未開拓のフィールドを発見する、主観であり客観でもある、矛盾の混在…自由。

音に接する、音楽をすることに対しエドウィン・フィッシャーが「胸襟を開いて…」という言葉を残しています。

着飾るのまではなく、心を裸にすること、未知なる部分に期待し価値を認めること…

書けば書くほど熱が伝わらなくなりそうですが、それほど素晴らしい即興だったということです。

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