審査

今月は日本バッハコンクールや大学実技試験での審査、ピティナステップ、ベヒシュタイン倶楽部、公開レッスンなどでの講評があり、たくさんの演奏を聴かせて頂きました。その中で「講評」を書くのですが、その量は既に数年分の文字数に匹敵するかと…。

こうやって講評をたくさん書くことであることに気がつきました。それは書く内容が大体「似てくる」ということ。意図的にそうしているわけではないのですが、結果的にそうなっていることはある種の傾向があるということです。大きく分けて2つあります。勿論これはあくまでも末永が個人的に思っていることです。

1)意識する

圧倒的にたくさん書いたこの言葉。とても漠然とした言葉ですが、むしろ具体的に書けない言葉とも言えます。例えば4つ連なる16分音符のグループが幾度か続いているところがあるとします。その時に拍感を大切にするのはいいのですが、最初の音か2番目のぐらいまでがしっかりと意識されていて、その後の3番目か4番目の音に意識が行き届いていない。これは拍の頭にアクセントが付いていることとは意味が違います。意識が有る無しは、アクセントの有無、または音量によるものではなく、あくまでも「音色」として聴き取ることができます。ようするに、隅々まで音楽的な表現を怠らず、決して惰性にならないことを意味しています。


2)心と繋がること

バッハコンクールを聴いていて特に思った(感じた)のがこのポイントです。技術的には素晴らしいし、ダイナミクスレンジ、カンタービレ、レガート、アーティキュレーション、様々な音色など(上記の「意識する」ことは多々思うところはありましたがそれでも)丁寧に構築して演奏されていたかと思います。しかしなぜ琴線に触れる、聴き手の心に何かしら届くものが少ないのでしょうか。別の言葉で言うと「せねばならないことをこなしている」演奏に聴こえてなりませんでした。(しつこいようですがこれはあくまでも末永個人の意見です)参加者の方々は、ここまで来るために大変な努力を積み重ねきたはずです。レッスンでは様々なことを指摘され、練習では苦悩し、気をつけるべきことは気をつけ、乗り越えてこられたかと。しかし僕ら演奏者はなん時も忘れてはいけません、この作品(またはモチーフ、または音単体)に対する愛情や情熱を。しかし専門的なことを突き詰めていくと、時として最も大切なポイント、いわゆる「足元」を見失うことが多々あります。今回のこの「心と繋がる」ということも、上記と同じくとても漠然とした表現です。しかし結果から「心と繋がっている音色」というのは明らかに存在し、聴き手はそれを無意識に聴き取っています。


簡単に書きましたが、そう言っても素晴らしい豊かな音楽があったことも事実です。この若い世代が心に豊かな時を歩み重ね、音に命を吹き込み素晴らしい音楽を社会に響かせてほしいと密かに願っています。

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