所属事務所

帰ってきた公開レッスン


「武蔵ホールが新しい体制で生まれ変わる」


お知らせを頂いた時はとても嬉しかったです。


「音降りそそぐ武蔵ホール」素敵な名前ですね。武蔵ホールの響きを体感されたことがある方は「なるほど!」と思われるのではないでしょうか。確かに、あの響きは「降りそそいでくる」かの様。


「良かった、なくならないで…」と素直に思いました。あのクォリティが(都内からは少し離れた)あの場所にあることはとても価値があります。武蔵ホールの空間、響き、楽器、雰囲気、エントランスから見える日常をやさしく映す何気ない景色…全ての要素が心を落ち着かせ、穏やかにしてくれる。


そして、先日公開レッスンのお話を頂きました。


旧体制時、幾度か企画された公開レッスンの空気間を思い出します。長い時は12時間近くあったような。その場にいる(受講、聴講、スタッフ)全員で荒波を超える緊張感、時に見えるユーモア、壮大な音楽を前に悩み、大きな旅を終えたような充実感など、それはもはや「仲間たち」という感覚。


末永のレッスンは大きく分けて「個人レッスン」「ゼミ」「公開レッスン」の3つがあります。


それぞれ特色がありますが、公開レッスンならでは緊張感、問題を浮き彫りにし、解決策やアイデアを提案、決して焦ることなく「テクニックや表現」を一つ一つ紐解き、創り上げていくのでそこで感じ得たことをぜひご自宅に持ち帰ってほしいです。


聴講の方は、じっくりと普段の問題点を自分の中で照らし合わせ咀嚼していく。人のレッスンを見て、聴くからこそ腑に落ちていく。


受講も聴講もスタンスは違えど、学べることは多岐にわたります。


5月26日土曜日、全8コマ、「あの時間」が戻ってくると思うと今からとても楽しみです。これまでの公開レッスンも本当に多くの方々が関東各地からご参加されました。受講聴講共にぜひお誘いあわせの上お申し込みください!

ピアノが生き返る


断線が酷く、もはやピアノからかけ離れていた音色を投げかけ続けていたのも昨日ようやく終焉を迎えた。


西欧音楽を弾いていてある音域に来るとガムラン音楽のがやってくる、みたいな。ドビュッシーとかいいかもしれないですね。


「末永さん、もうお一人で弦を張れるようにしてください」


何度も言われるし、解っている。わかっちゃぁいるけどできない。何度か教えてもらったけれど大体は忘れてしまう。言葉と同じですね。その場で習っていても使わなければ覚えない。


いずれにしても我が家のベヒシュタインが声を取り戻し喜んでいます。ユーロピアノのNさんありがとうございました!


僕は、張弦、調律、整音、調整など、どんな時もとても興味があるので横でじっと見ていたりいろんな質問や疑問を投げかける。もちろん集中されている時は部屋にいないけれど。こんな末永をお許しください。しかし、それでも嫌な顔一つせずいつもリアクションしてくださる調律師の方々を愛してやまないわけです。


ドイツに住んでいた時代はずっとカワイを所有していた。そう言えばシュツットガルトに住んでいた時カワイのYさんが調律を終えられた後、意気投合して8時間くらい立ち話ししたっけ。ご本人は覚えているだろうか?このブログを読んで覚えてたらメッセージください。


調律師がご自宅に来られた時、ピアノを挟んでどんな言葉を交わしていますか?

第10回特別レッスンを終え


昨日、第10回末永匡特別レッスンを終えました。毎回思うけれど、本当に素晴らしい時間。満ちていく感覚。


新規受講生との出会いに心躍り、音楽創りでは耳に音を傾け、心の森を探索し、言葉を選んではピアノに向かう、そしてリピーターの方々の成長から「継続することの大切さ」を改めて強く感じ。


僕も多くを学ばせていただきました。ベヒシュタインとホフマンの豊富な音色は、多くのアイデアをくれるけれど、時に難しさも与えます。


その厳しさは決して否定的ではなく、むしろ「表現する楽しさ、創る楽しさ」だと思うなぁ、と帰りの電車の中でレッスンの熱気に浸りつつ。


全てのレッスンを終えた後、受講されたピアノの先生と立ち話。


「このように集中された学びの場を、ぜひこれからの社会の未来を担う子供たちにも」とお言葉を。


確かに…


子供たちのためにも豊かな音楽の時間、教育の場を共にしたい、そんな気持ちが膨らみます。実際にこれまで似たようなお話を何度か頂いていました。


僕の経験が子供たちにも役立つのだろうか…この思いはずっと頭にあります。


「末永匡特別レッスンforキッズ(仮)」もしくは夏休みと冬休みに合わせ「ピアノの時間~集中特別レッスン~(仮)」のような「子供たちに特化した」音楽の学びの場が生まれるかもしれません。温かく見守っててください。


子供たちへ…僕の中に響き続けるこの言葉。


音楽で繋がる素晴らしさを再び噛み締めた一日でした。少なくとも人が音楽で繋がっているときは「争いが生まれない」。音楽を模索し創っている時は「暴力を考えない」。シリア内戦など世界各地での不安定な情勢、今の世の中だからこそ、その思いに強くひかれます。バレンボイムのディヴァンオケについて思いを馳せつつ。「未来」は今を生きる子供たちが創る。大人は何を残していけるのだろう?愛する自分の子供たちを見ながら湧き上がる感情…


人は共に歌い、奏でる。


全ての関係者に心から感謝申し上げます。


「末永匡特別レッスン」次回は4月28日、残枠(5)(6)の2つ。是非ご検討ください!

感謝、そして思い出す東工大

 ユーロピアノ株式会社様より「"私の"ベヒシュタイン物語~エッセイコンテスト公募作品・委嘱作品集~戸塚亮一編」をご恵贈いただきました。ありがとうございます!


大変興味深く拝読しました。各執筆者が「それぞれの言葉で"丁寧"に綴っている」のがとても印象的。ベヒシュタインピアノが人生にどう関わっているか。「"私の"・・・」に「""」がついている意味が良くわかります。楽器と人に歴史あり、ですね。


その中で、末永が東京工業大学でとてもお世話になった肥田野登先生(東工大名誉教授、前世界文明センター副所長、イタリア・トレント大学客員教授)が「ピアノを超えたピアノの役割」というタイトルで執筆されています。


東工大にあるベヒシュタインピアノについて、そして末永も講義を受け持っていた世界文明センターでのことが先生の熱き言葉で綴られています。ぜひご一読を!


「末永さんは東工大で何をしてるの?」とあらゆる音楽関係者から受けた質問。「僕は東工大で音楽を教えていないし、ピアノも教えていません。学生たちと"創造"しているのです」こう答えるとポカンとされることが多かった。肥田野先生の項目これを読んでいただければ伝わるものがあると思います。音楽関係だけでなく、一般的に「理系」と呼ばれる学生たちにもぜひお勧めしたいです。とにかく、東工大の学生たちは素晴らしい「表現者」だった!




「ブラック・マウンテン・カレッジ」というのをどちらかで聞いたことはあるだろうか?簡単な説明があったのでリンクを。東工大の前世界文明センターでのことと合わせてこちらもご一読いただきたいです。

「ブラック・マウンテン・カレッジ」
http://artscape.jp/artword/index.php/ブラック・マウンテン・カレッジ

http://artscape.jp/dictionary/modern/1198589_1637.html


芸術の社会での存在意義。


芸術とは何なのか?


芸術は人間の共通言語となりうるのか?


それらは言葉で明確に説明できない。けれどある種の「本質」が存在することは確か。本当に必要でなければ今頃歴史の塵に埋もれて消えている。


存在し、求められている事実。


何であるか?を探求すること自体に意味があるかどうかは別として、「創造」することに「人間を見る」僕がいる。それが芸術なのか?そんなことはわかりません。


しかし僕は求め、創造しようとする。
人はそれを求め、創造しようとする。


例えそれが社会で必要ないと言われるようなことがあっても。



これは数年前僕が執筆したエッセイです。お求めの方はユーロピアノ株式会社にお問い合わせください。

表現の広さ


3月9日にオーチャードで東京交響楽団とご一緒させていただくゲーム音楽のコンサート。ピアノソロもあり、室内楽、オケの中など「ピアノ&オーケストラ」とタイトルに相応しい形で作品と演出に深く関わらせていただいています。


ワンダと巨像特設ページ
http://www.4gamer.net/music/

アメリカで世界中のゲームのアカデミー賞ともいうべき GDC ベスト・ゲーム・オブ・ザ・イヤーを受賞し、世界各国で高い評価を受けている作品「ワンダと巨像」、そして音楽を担当された大谷幸氏の作品はサウンドトラック・オブ・ザ・イヤーと讃えられ、この世界観の一端を担えるのは大変光栄なこと。


末永にとって初めてのチャレンジ。本当に勉強させてもらってます。


現在練習に取り組んでいる作品群を見ると「Lachenmann、Schnittke(現代曲)」「Brahms、Ravel、Beethoven、Chopinなど」そして「ワンダと巨像(ゲーム音楽)」と、こうやって見てみると時代とジャンルを行き来している感が。


感覚が激しく揺さぶられ、もはや時空を超える旅。「音での表現の幅広さ」に驚きながら、考えさせられ、納得し、毎日が心躍る音楽の時間。「多様」に溢れるピアノの部屋。


ワンダと巨像を練習中、次女が横に立っていてじっと見ながら「いい曲…」と。


ラッヘンマンを練習中、長女が横に立っていてじっと見ながら「すごーい…」と。


僕にとってそれがゲームだからとか映画だからとか、クラシックやロックやジャズだからという境界線には正直興味がありません。良いものは良い。ワンダと巨像の一音に、バッハの一音に、時にラッヘンマンの中でハンマーの音に、ヴィッドマンを演奏中に張り上げる自分の声に、そしてベートーヴェンのアダージョにも同じように感動できる心に感謝しつつ。それぞれにそれぞれの魅力がある。幅広き音の世界。


この音楽によって導かれる素晴らしい世界観をぜひご堪能下さい!

作品に生きた言葉を聴く


今日は朝から心がざわめいている。


落ち着かせようと、丁寧にコーヒーを淹れるがそれでも。多分に昨日の時間があまりにも「豊か」だったからか。


ラッヘンマン作曲「Got Lost」というソプラノとピアノのための30分に渡る大作。ヨーロッパではいろいろと演奏されているが、日本ではまだほとんど知られていない。現代曲が日本の土壌で育っていく難しさは、僕自身も普段の演奏活動から身をもって体験している。日本での「アートの在り方」それはすなわちこの「社会」に生きる「人の心の在り方」に直結しているのでは、と。


都内某所、スタインウェイを所有されている画家のご自宅を借りて、ラッヘンマン夫人である菅原幸子さんから直々に教えを頂いた。「Got Lost」は世界で彼女がもっとも多く演奏している。様々な国の演奏家と。


こんな貴重な経験があろうか。当初は僕がドイツに行ってレッスンを受けようともしてた。それほど素晴らしい作品だし「学べるなら何でもする」という気持ち、それしかない。


作曲家の初演をするのは何度か経験があるが、これは本当に貴重な体験。作曲した本人自らその作品について学べるから。ベートーヴェンの演奏を聴いてみたい、ベートーヴェンから作品を、音楽を学びたい。もちろん無理なことだけど、作品に触れていると本気でそれを思ってしまう。チェルニーが羨ましい。


今年の5月に滋賀県は大津にある「びわ湖ホール」で、世界的指揮者でありびわ湖ホール芸術監督でもある沼尻竜典氏が総合プロデュースする「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭2018」が催される。沼尻さんとは2011年に東京文化会館で行われた「フランツ・リストと同時代の巨匠たち~リスト生誕200年記念」でリストの死の舞踏を共演させていただいた以来。


音楽祭プログラム(出演者、日時など)
https://bc2018.biwako-hall.or.jp/pdf/bc2018.pdf


この音楽祭でシュツットガルト州立歌劇場の専属歌手として世界的に活躍しているソプラノ歌手角田祐子さんと「Got Lost」を共演させていただく。彼女との共演はアルバン・ベルクの「ルル」以来。ラッヘンマンご夫妻から絶大なる信頼を置かれている角田さん。彼女は菅原さんと共に「Got Lost」を世界で最も数多く演奏している。


要するにこの大作を最も知り尽くしているお二人から「Got Lost」を経験できることの価値。これは震えるほどのもの。


昨日の時間の後、菅原さんと「現代曲や日本の音楽教育」について語った時間も強烈に印象的に残っている。


心のざわめきが落ち着かないわけです。

ひらめき


最近知った「逍遥学派(しょうようがくは)」。


「逍遥(散歩)しながら講義したこと」が由来とか。ペリパトス派とも。


なるほど…


僕は散歩するさい、これといって深いことは考えず、その通り過ぎる瞬間を味わいながらぶらぶらと歩いているだけ。しかし、頭が飽和状態だったり、何かしらアイデアが必要だったり、音楽的表現を模索したり、人生に迷ったり…そんな時いつも少しだけ一歩前に導いてくれるきっかけは「散歩」だったかなぁ。


ドイツに住んでいたころ、先生はよくレッスンの途中に僕を散歩に連れ出してくれた。歩きながら世間話をしたり、何も話さなかったり。けど、時々「life」について語り合ったり。


その影響もあるのか(確実にありますね)、僕も学生とたまに散歩する。何も期待しないで、シンプルにその時間を共有する。講義を学生たちと大学構内を歩きながら過ごすことも。


「何も考えないで」というのも、円の如くぐるりと回れば「考えている」ことなのかもしれない。


「見てない」けど「見てる」のかもしれない。


「何もない」けど「全てある」のかもしれない。


散歩している間、物事に対し思考や感情がどのように渦巻いて機能しているか想像もつかないけれど、新たな発見や気づきが「散歩」をきっかけに生まれてくることは多い。


子供との登園は僕にとっても大切な時間なのです。

静岡で音楽を


先日の静岡でのレッスンは素晴らしかった。


ショパン、ドビュッシー、ベートーヴェン。T先生門下の小学生や大学生、そしてT先生も一緒に創った音楽の時間。素晴らしい演奏と学びへの姿勢に感動です。


もし僕の経験が少しでも皆様のお役に立てるのであれば、この形が全国に広まることを静かに願いつつ…


ピアノは孤独な作業が多い。だからこそ皆で創造過程をシェアしたい。そこに湧き出てくる様々なアイデアや思考が交差し新たな気づきが生まれる。それはまるで室内楽のリハーサルの様。


以前、広島での室内楽コンサート。その時に何度も重ねた「非常に」有意義だったリハーサルの時間を思い出す。決して忘れることのない印象的な時間。


それをピアノのレッスンで活かしたい。僕の中に潜む強い思い。


教育に対し、とても柔軟で広い視野を、そして情熱を抱いているT先生。話題も尽きることなく、素敵な時間はあっという間に過ぎていきますね。


その日は友人宅に家族でお世話になり、両家族の温かな交流に心が和みます。


たくさんの気持ちを込めて、ありがとう。再会を約束。



翌日はPTNAステップのアドヴァイザーで数々の素晴らしい演奏を拝聴。講評には「次につながる問題提起」を。自身の音楽を見つけてほしい願いを込めて。



最終日、沼津港。漁師の方は話してて気持ちいいです。食事も美味しく千本浜も富士山も立派で美しい。


壮大な海、色、風、におい、音、冷たさ…


五感を通して僕の体に入ってくるもの全てが一音の打鍵に集約される。


経験は消えない、永遠に蓄積されていく。

「TEDxTitech2018」日程変更のご報告

末永が登壇させていただく「TEDxTitech2018」は5/13に変更となりました。


https://tedxtitech.org/


テーマ「Get Interdisciplinary」についての解説も大変興味深い。各登壇者も発表されています。


是非ご覧ください!

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挑戦

家族が寝静まっている今、先日同様グリュミオーのバッハを聴いています。


今日は所沢市立松井公民館でリサイタルでした。1990年4月以降今日まで毎月開催されているコンサートシリーズ。もちろん名前は知っていたので、このシリーズに出れることは所沢市民としても格別な思い。



プログラムの変更は多少あり、トークを含め2時間、温もり溢れる時間。満席のお客様にも恵まれ、これまで28年間続けてこられた企画の底力を感じます。公民館のホールはとても立派。ピアノは小柄のヤマハG3。Gシリーズのファンも多いのでは?僕もその一人ですが、このヤマハG3は本当に素敵だった。特に「角がなく"含み"ある弱音」が個人的には印象的で、演奏しながら様々なアイデアが生まれてきました。


そう、僕自身が日々変わっていくように、演奏も変わっていく…


今回はこれまで何度も演奏しているプログラム。練習では「新たな表現」を模索し続けました。その時間は正に「自分との闘い」。頭や心が爆発するような苦しさでしたが、心と繋がる瞬間、これまでの苦しみから解き放たれる自由な感覚が。そのような意味で今日のリサイタルは挑戦の連続。演奏だけでなく「心の在り方」も然り。様々なことを試みたこのコンサート。僕にとって本当に大きな経験となりました。全ての関係者に心から感謝申し上げます。


コンサート後のレッスンで生徒がショパンとベートーヴェンを。別の生徒からは、メールでバッハの楽譜の見方についての気づきが。


みんな少しずつ変化している。自分を強く信じて。


明日は静岡。音楽で繋がっていくことに感謝です。

夜にバッハを聴く


高校の時に一人暮らしを始めて、アパートではいつもグリュミオーのバッハを聴いていた。


夜な夜なこれを聴いては、苦しさを覚えていた。


当時、桐朋の副科作曲がなかったこともあり、その時弾いていたバッハの鍵盤作品を写譜しては、下手なりに編曲もしていた。記譜することに飢えていた。


この様な演奏は「音がきれい」とか「素敵な音楽」とかの言葉では全くなく、むしろ「痛みのある音」「心の苦しさ」と言っても過言ではない。


僕にとってはクラシック音楽は癒しでもなんでもなくて、ある種の受難、そこからの一点の光に手を伸ばす、そういうもの。


「生きる」ことであり「生きたい」と願う。「生」に手を伸ばすこと、それはある意味「音」にしがみつくこと。


今日のレッスンは4時間バッハ。楽曲構築(設計)の細部に渡り生徒と見直す。知っていることでも今一度確認し、その価値を問う。未曽有の世界に引き込まれながらも魅力あふれる音楽に興奮を覚える素晴らしい時間でした。


明日のソロリサイタルは「ドイツ音楽の深淵、その闇と光」。いい時間になりますように…。

自分の言葉で

コンクールで受賞したとの報告が入った。


そうか…受賞したのかぁ、としみじみ。素直に嬉しく思う。しかしそれよりもレッスンで過ごしたこれまでのことを思うと、ホントよく頑張ったなぁ、と。


レッスンで出来ることというのは限りがある。それを咀嚼し浸透させ、活かしていくのは自宅での個人練習。


「コンクールというはある意味とても大切だと思います。しかし、あなたが受賞するかどうかについては正直あまり興味がありません。気にならないわけではありませんが、レッスンの中では重要なことではないのです。僕は、あなたの音楽をあなた自身の言葉で創っていく、それ自体が最も大切なことだと思っているし、興味があります。」と伝えたのを思い出す。


自分の言葉。


常に自身の心と対峙し、自問を繰り返しながら音楽の奥を覗く。その濃く深い関係によって生まれた音楽は自分の絶対的なパートナーとなり今後の人生を共に歩んでいく。不安になったとき、迷ったとき、孤独になったとき、いざというときに常にそばにいて自分を支えてくれる。それは決して離れることがない。あなた自身の音楽であれば、の話。


そしてその人は自分の言葉を楽譜に書いてきた。偽りのない本音を。見せるときに恥ずかしがっていたけれど、僕はその言葉を見て素晴らしいと思ったよ。これでようやくスタート地点に立ち、音楽を語れる。そこから一歩一歩、少しずつ。


「あなたはどう弾きたいのですか?」


ドイツで常に先生から聞かれた言葉。何百回聞いただろうか。今でもそれは木霊している。決して複雑な問いではないんだ…けどね。


公開レッスンだろうがゼミだろうが、コンクールだろうがコンサートだろうが「音楽を創っていく」ことには違いはない。僕はいち聴き手として「奏者の音楽」すなわち奏者の「人間」を聴きたいと思っている。奏者が先生の言うことをどれだけできているか、ではなくて「奏者が何を感じ、何を伝えたく、どう表現しているか」を。「あなたが何者なのか」を。以前、某コンクールの講評にそんなことを書いたっけ。


感じること、表現って何だろう?


これまで生きてきた人生の経験という点が線でつながり一つの音に集約されていく、そんな感覚を思ったり、エドウィン・フィッシャーの「芸術と人生」も思い出したり。


このブログタイトルの説明はそんな気持ちも含まれています。


では、僕は自分の言葉で語れているのか…?


さて、今日もこれからピアノに向かおう。

最近のベヒシュタインピアノ


僕が所有しているピアノはベヒシュタインというメーカー。


創業は1853年ドイツはベルリン。同じ年に産声を上げたピアノは他にスタインウェイ(ニューヨーク)、ブリュートナー(ライプツィヒ)など。凄いですよね。


それぞれのメーカーには特徴があるけれど、同じメーカーの中でもそれぞれの個性が。


我が家にあるベヒシュタインを一言でいうと…「とても厳しい」。


この表情そのもの。これは創業者のカール・ベヒシュタインさん。恰幅の良さといい髭といい。漫画に出てきそうですね。


最近は自分のピアノとあまり良い関係ではなく、弾くたびに自分の音楽が跳ね返されてた、そんな感じでした。絶不調の時は一音打鍵するのもしっくりこなかった。


「厳しい」というのは両方の意味があるんだけど、良い意味で言えば「繊細な音色を出すために鍛えてくれる」。悪い意味…というかあーあって気持ちになるのは「たまにはちょっとくらい許してよ、こだわるのはいいけどさ」って気持ちにさせ、僕をピアノから遠のかせる。大袈裟な話ではなく、自分の全てが否定されピアノ弾くのが本当に怖くなる、そんな時も。


その時の状態が「そのまま音」に。


奏者を裸にするピアノ、ベヒシュタイン。


じゃじゃ馬の名馬、ベヒシュタイン。乗りこなせば素晴らしいパートナーになる。それまでが大変だけど。


先日「音と向き合えた気がしました」という記事を書いたけど、その時から少しずつ、少しずつ近くなってきた気がします。


今日はベートーヴェンとシューベルトでベヒシュタインが音楽と心の良き架け橋となってくれました。


最後に、上記はあくまでも末永所有のベヒシュタインのお話です。ベヒシュタインピアノについてベヒシュタインジャパンのサイトにそのストーリーがありました。ドイツでは頻繁に目にしていたベヒシュタイン。日本ではあまり見ませんね。限定されたメーカーだけでなく、ヨーロッパみたいにいろんなピアノメーカーに溢れることを切に願ってやみません。


最後の最後に、この記事冒頭にある画像をみて「まさか末永の自宅なのか?」と思ってしまった方々のために説明を。これはワイマールにあるリストの部屋です。使用しているのはベヒシュタインピアノ。今もまだそのままの状態で残っています。部屋の後方にある小さく見えるのはベートーヴェン。ブラームスにしてもそう、リストも、ベートーヴェンが後世に与えた影響は計り知れないものがあります。

一日が始まる


いつも通りの時間に起きて


いつも通り熱いお湯で顔を洗い


いつも通りの時間に朝食


いつも通り子供たちと登園


いつもとは違うコーヒーを淹れたら意外においしい


いつもとは少し違う心の在り方に


いつも通りの風景がいつもと違って見える


さて、いつも通りピアノに向かおう


「同じ」がない世界へ


素敵な一日を

末永ゼミを終えて

「ゼミって何ですか?」


このような質問を最近よく聞かれます。


簡単に言えば少人数でのレッスンシェア。公開レッスンもあるけれど、それとは全く似て非になるもの。


通常はこの末永ゼミにご興味を持たれた方がご友人をお誘いいただき3~4人。場所はその方の自宅(またはスタジオも可)。1人90分~120分。3人だったら4時間半~6時間。数字を見ると長時間ですが、これまで受講された方々は「あっという間」と皆様口を揃えておっしゃってくださいます。


公開レッスンでの聴講はあくまでも客観的に聴くことに専念。これはこれでとても大切なことです。しかしゼミは少し違う。


「聴講もアクティブに」


人のレッスンを聴きながら、自身も積極的に質問や自分の考えなどの言葉を投げかけ参加します。


「共に学び、共に教えあう」


ゼミは公開レッスンよりも身近な関係と環境。それゆえに心もリラックスしコミュニケーションが図りやすいのです。


参加者それぞれの解釈や価値観、その多様性。作品の追求だけでなく、普段の自分が抱えている課題や悩みなどの共有。普段自分で弾いている自宅のピアノが全く違う音色を持つことの実感。


とても深く気づき多き時間なのです。


ドイツから帰国して10年。これまで本当に多くのレッスンやレクチャー、公開レッスンをさせていただきました。ゼミという発想自体は新しいものではありません。しかしピアノレッスンをそのような形に取り入れてみるというのは個人的にはある意味新しかったわけです。どのようにその時間を運んでいくか、コミュニケーションを含めこれまでの多くの経験から得たノウハウがとても活かされる場でした。


昨日は3人。シューマン=リスト、ラフマニノフ、吉松隆、ペヤチェヴィチ。どれも素晴らしい作品と演奏。僕も勉強になりました!


全ては「学びへの情熱」なのです。


感謝を込めて

昨日の様子

※3~4人であればどなたでもゼミを開催できます。音楽が好きで学びたい方へのところであれば末永は日本全国どこへでも行きます。気軽にお問い合わせください♪

音と向き合えた気がしました


朝起きて窓を開けてみると、そこに広がる景色に一瞬息をのんだ。


似たような感覚、思い出。それは自分が幼稚園、田舎に住んでいる時だったかな。


周りは森と田んぼしかない。朝起きて外を見ると庭(というか森)が雪に覆われていた。その時の印象は正に「息をのむような」もので、その感覚を今でもはっきり覚えている。


冷え切ったリビングに温もりを…




こんな日に静かに練習するのはいいものです。


決して焦らず、まるで自分が作曲しているかのようにゆっくりと隅々まで丁寧に楽譜を見る。あるゆる知識、経験、感覚を張り巡らせて。


楽譜の奥に何があるのだろう?


音符の奥に、リズムの奥に、楽譜上のあらゆる記号の奥に僕は何を感じているんだろう、と自分の心を探す。


そして頭や心がいっぱいになる前に外を見る。そうすると落ち着くんです。




指を動かすことや考えることだけが練習ではない。「集中力をどう持続させるか」その方法を知っておくこと、これも大切なこと。けれど、人によって違うんですよね。僕の友人(フランス人ピアニスト)は夕方以降でないと集中できない、と言っていたっけ。


「集中できる時間を知っておく」これはとても大切。僕は朝ですね。自分の集中できる時間を知っておくと、練習課題の優先順位に対し有効に対応することができる。例えば、譜読みや暗譜を早急にしなくてはならない時、これらの練習は朝に回す、とか。


もちろん、そんなことも言ってられないことも多々ありますが…



目を閉じ、音の軌跡を追いかけ、響きに身をゆだねる。


身体、呼吸、心の動きを見る。自己観察。


ゆっくりと深い海に沈んでいくように、その深淵を覗く様な練習。音楽芸術との対峙。


この感じ、本当に久しぶりだ。


今日、ようやく音と正面から向き合えた気がしました。